味噌汁のように生きる

楽に生きよう。適当に。 間違うことも失敗することも色々あるけど。適当に。

死は「悪」なのだろうか

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ボクは死ぬのが怖い。

正確には死そのものよりも、死に至る過程が怖い。

いわゆるキャンサーフォビア(癌恐怖症)であったり、心気症といわれる類の精神的な問題を抱えてる。

最近もまた、ホクロを気にして恐怖してた。

たしか、初めて病気への恐怖を抱いたのは中学二年の頃だったから、こんな病との葛藤を繰り返して早十数年になる。

あらゆる心理療法を試して自分なりに解決しようとしたけど、結果としていい方向に向いていない。

その理由はおそらく

「死」から目を反らしているからなのではないだろうかと思い始めた。

ボクの心気症のパターンは

  • なんらかの情報から病気への不安を抱く
  • 不安になりネット検索を始める
  • 病院へ行く
  • なんやかんや検査を受けたり経過観察を経ていつの間にか不安を忘れる

このパターン。
これでは結局「本当に病気になった時」の心構えができていない事になる。

本当に病気になった時、つまり「死が近づいた時」の対処というか、心の持ち方を整えない限り、根本的に心気症への解決にはならないのではないかと思うようになってきた。

死について考えるには、科学だけでは正直心もとない。死は生きてる人には体験できないものだし、科学的に可能性と仮説の上でそれを文章化してロジカルに伝える事では本質的に人は納得できないからだ。

たとえば、「死んだら無になる」というのはよく言われる事だけど、実際に「無」とは何かを理解するには死ぬしか無いわけで「無」になると言われても、その知らざる状態になることへの恐怖を理解して克服する事は困難だ。

死はある種、「解放」でもあると、ボクは考えている。だから、死そのものへの恐怖はあまりないとも言える。だけど実際死ぬとなった時にしか本当の死への自分の反応は体験できない。つまり、ここで考える事もまた無駄かもしれない。

それを踏まえた上でも、死に近づくことへの恐怖を払拭するためには「死」に対して自分なりの理解と答え、というかロジカルじゃなくてもいいから感覚的にでも「死」を捉える事が心気症克服の近道なのではないかと思ったわけで。

前口上が長くなったから実際考えていく。

人はみんな、いつか死ぬ

人はみんな、いつかは死ぬ。

これは事実だ。
もちろんこれをある種の超科学的な解釈を持って否定する事は出来る。
たとえばペンギン・ハイウェイという小説の中で主人公の友人が、量子力学的な観点から「自分は自分の世界では死なないのではないか」という問いを主人公に問うシーンがある。

これは子供のころ多くの人が考えたことがある事だと思う。ボクも考えた事がある。

目を閉じた時、世界は止まってるんじゃないかとか、自分が死んだら世界は終わるんじゃないかとか。

これはある種科学的に否定されているようだけど、量子力学的観点から、自分の世界の観測者が自分であると過程した場合、正解ともなるし、世界が終わらないために自分という観測点は永遠に消えないように世界が進む可能性という事も無いとは言えない。

しかしここまで来るとオカルトチックだし、それを信じようが信じまいが、もしこの仮説が正しければ自分は死なないだけなので実際どうなるかはその時までわからない。それにこの解釈をもって死を理解した、とするにはいささか逃げ口上的だと思う。

だから今回はとりあえず、ちょっとオカルト気味な超科学的な解釈や仮説はおいておいて、人は死ぬという事は絶対の真理だとして捉える事にする。

死は ’自分にとって’ 悲しい事なのか

死は自分にとって悲しい事なのだろうか。

他人、親しい人にとっては人の死は間違いなく悲しい。

もう話す事はできないし。本質的に触れ合う事もできない。それは悲しい事だ。

言いたかったこと、よく「ありがとう」と言いたかったなんて事が語られるけど、でもこれは生きている側からのエゴであって、死んだ本人の話ではない。

死んだ本人は自分の死を悲しむのだろうか。

死んだら「無」であるという一般的な科学的解釈と言われている解釈を前提に考えるなら、「無」でどうやって悲しむのか。

無であるという事は悲しまないという事であり、本人は自分の死を悲しまないし、悲しめないという事でもあり。つまり死んだ本人にとって、自分の死とはどうでもいいことなのかもしれない。

道半ばで、とか、若くしてとか、よく言うけども、永遠の命が無い限りすべて道半ばだ。90歳だろうと100歳だろうとやりたいことはあるだろうし、話したい人もいるだろう、ふれあいたい人もいるだろう。

つまり、後悔しない死は無い。

すべての人に訪れる死を、後悔せずに迎える事は困難である以上、生きた状態の後悔を死んだ後の本人の感情を代弁するのはある種滑稽な行為なのかもしれない。

死を後悔するのは死ぬ寸前、そしてその後悔は往々にして遺していく者たちへの何かであって、本人は、自分の死について、死んだ途端になんとも思わなくなるのではないだろうか。

早死したら不幸なのか

早死は不幸なのだろうか。

若くして亡くなる芸能人のニュースに対して「まだ若いのに」というコメントをよく見かける。

しかし、本当に若くして死ぬと不幸なのだろうか。

縄文時代は平均寿命14歳程度だったと言われていて、これは幼児の死が多かったことが加味された数字だ。それを差し引くと30歳前後になるらしい。

30歳で死んでいくものがみな報われないのであれば、縄文時代の人たちは皆報われない死を遂げているのだろうか。

ボクはそうは思わない。

前述したが、100歳でも後悔はするだろう。早いか遅いかは関係ない。死を憐れむのは、生きているものからの主観でしかない。死にゆく者は確かに生きたかったと思うだろうが、それは生物として当然の事だと思う。しかし人は永遠には生きられない。いつか迎える死を年齢という概念で幸か不幸か判断するのは、生きている側のエゴではないだろうか。

死が悪なのだとしたら、みなその時を迎えるわけで。平均寿命より長いか短いかで判断するなら、幸せが相対的価値観で定められている事になる。

幸せだったか不幸だったか、それを決めるのは本人だ。

若くしてなくなる事を恥じなければいけないかのような、若い死への同情は、むしろ死よりも罪深いものなのではないか。

同情そのものがそもそもエゴである以上、仕方ないのかもしれないけど。

みんな死を知らない

ソクラテスは死ぬ時こんな事を言ったらしい。

皆死を知らないのに 絶対悪のように恐れる。 私は死を知らないから、それを妄信的に恐怖したりしない(雑訳)

無知の知 で知られるソクラテスらしい言葉だと思う。

ソクラテスが言うように、僕らは死を知らない。死は死んだものしか理解できないからだ。

そして超科学的な解釈を交えたり、意識とは何かという議論を付け加えると、僕たちが思っているより死は無と=ではないかもしれない。

死を知る事はできない。

世間では熊や猪は可愛いらしい。

田舎暮らしの自分からすると猪は驚異だし、熊は地元にいなかったけど、熊による事件は歴史上いくつも起こっている。確かに動物は可愛いが、アレらはむしろ人にとっては恐怖の対象だろう。

所詮、死もこの程度のものなのかもしれない。

死を悪とするのは、生物的な本能とは違うのではないかとボクは考えている。

僕ら人間の死の恐れ方は「遠い未来」に対しての恐れ方であって、今この瞬間眼の前にあるものじゃない。

生物的な死への恐怖は、反射的なもので、眼の前の驚異に対するものだけど、神経症はじめ死に対する恐怖はまだ訪れていない未来に対してのもの、つまりこれは後付によって構成された恐怖心なのではないかと思う。

僕らは情報を得るために言葉を使う。それが結果未来や過去という眼の前に存在していない時間を捉える術になっているわけだけど、それ故に死を恐れる情報を多く持ちすぎている気がする。

死はもっと言語化せず感覚的に捉えるものなのではないか。

ソクラテスの言うように妄信して恐れるものではなく。他人に教わるものでもなく、自分を縛るものでもなく。

やがて来ることを理解して、納得できる形で受け入れるものなのではないか。

悪でも正義でもない。自然なもの。

「死んだら終わり」とか、「死ぬこと以外なんとやら」とか、かっこいいし聞こえはいいが、死は「最悪」ではないのではないか。

自然の摂理に善悪をつけるとか、むしろ傲慢な行為なのではないか。

死をどう捉えるかに科学も宗教も関係ない

ここまで書いてきて思ったけど。

答えは出せない。

死はおそらく東洋哲学的で、言語化するのではなく体感的に理解する部類のものだと思う。

ロジックとして人に伝えられてもやはり納得はできない。

宗教的だろうが、科学的だろうが、訪れることが変わりない、この死という最終イベントについては、自分の頭で考えて自分で納得するしかないんじゃないか。

もしかすると、いつの日か死を解読する科学者が現れるかもしれない。しかし、今はそれは存在しないし、解読したところで避けられないのなら。

自分なりの「死」という感覚を理解するために考え続けるしかないんだろうと思う。

だから宗教的だろうが、オカルトだろうが、科学だろうがそんなものは関係なくて、自分なりの解釈を、理解を得る事が最も重要なんだと心に刻もうと思う。

誰もがいつか死ぬのだから、安らかに死ぬためにも、その準備はしておいた方がいいだろう。

何者として死にたいのか

死を考えるとマイナスな思考になりそうだけど、人は死の恐怖によって動かされてるなんて研究もあるそうな。

死を行動原理として利用することは可能だと思う。

たとえば、

死んだ時何者として死にたいのかってのは良い考え方だと思う。

平凡でもいいからその答えを持っているかどうかで生き方は変わるだろう。

スティーブ・ジョブズが遺した言葉同様に、その日後悔しない生き方というのは、何者として、どういう人間として死にたいかという事でもある。

長生きすることが正義じゃない。終わりよければ全て良し、その瞬間自分が成し遂げたかった自分に慣れているかという事の方が重要だと思う。

長くなったので今日はこの辺で。